キング・オブ・ポップ――音楽史、音楽産業においても、この人なくしての「今」はあり得なかった。誰よりもエンターテインメントに徹し、誰よりもポップスターに振る舞い、常に人々を歓喜の渦に巻き込みながら、後世のクリエイターたちにいずれも大きすぎる程の影響を与えてきたマイケル・ジャクソン

MTVでは、今年で死後7年を迎えるマイケル・ジャクソンの特別番組を、命日となる6月25日(土)に一挙放送する。

そこで今回はマイケルの輝かしいスターとしての道のり、その歩んだ生きざまをミュージックビデオと共に振り返る。

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Michael Jacksonさん(@michaeljackson)が投稿した写真 –

1958年、アメリカはインディアナ州ゲイリーの工業団地に暮らす大家族の五男(総勢6男3女の大兄弟)として生まれたマイケル。生後1歳半で、洗濯機の音に合わせて、哺乳瓶を片手に踊っていたとは母親の談だが、父親ジョーはかつてリズム&ブルースに熱をあげていた元ミュージシャン。あるとき自分の息子たちに才能を見出したジョーは、貧しい生活から抜け出すために息子たちをプロのエンターテイナーに育てることを決意。以来、自身で英才教育を施し、兄弟5人で結成されたグループがジャクソン5である。ジャクソン兄弟はマネージャーの父親と共に一途ニューヨークのアポロ・シアターのアマチュア・ショウに出演、優勝を果たし、注目を浴びていく。その後、ボビー・テイラーの手引きもあって、名門〈モータウン・レコード〉と契約。1969年、グラディス・ナイト&ザ・ピップスに用意されたという曲を書き直して作られたシングル曲、“I Want You Back”でデビューするも見事、全米チャート1位獲得する。

The Jackson 5 – I Want you Back(1969)

続いてリリースされた“ABC”、“The Love You Save”、“I’ll Be There”が全てチャート1位を席巻、71年にマイケルはソロとしてもデビュー。更なる自分の可能性にチャレンジしたくなったマイケルは、スティーヴィー・ワンダーやマーヴィン・ゲイといった〈モータウン〉の先輩アーティストたちが自身でプロデュースする姿をみて、自分も好きなように歌う事を要望するも、〈モータウン〉はこれを却下。そんな摩擦とともにセールスも下降しはじめ、75年にジャクソン5は〈エピック〉へ移籍。グループ名の継続使用を〈モータウン〉が認めなかったため、ジャクソンズと名前を改めて再出発する。

Jacksons / Blue Away
▼マイケル初の自作曲である

声変わりを経て成長したマイケルは、〈エピック〉への移籍により、制作における自由度が増し、念願のオリジナル曲を発表することができた。78年発表のジャクソンズのアルバム『デスティニー』では、20歳にして、セルフ・プロデュースをこなし高い評価を得る。マイケルは、このチャンスを生かした更なるステップとして、自分の思い描く作品を作りたいと考えていた。そのアイデアを実現してくれるプロデューサーを探す中、映画仕事で親しくなったクインシー・ジョーンズに良いプロデューサーはいないかと尋ねる。かねてよりマイケルに惚れ込んでいたクインシーは「わたしじゃ、ダメかな?」と言ったという。

Michael Jackson / Don’t Stop ’Til You Get Enough

クインシーをプロデューサーに起用することに反対だった父親とジャクソンズだったが、マイケルは反対を押し切り、79年にクインシーの指揮の下、マイケル自らソングライティングやプロデュースに関わった、エピック移籍後初のソロ・アルバム『オフ・ザ・ウォール』を発表する。今作収録の“Don’t Stop ‘Til You Get Enough”は異例のヒットを記録しマイケルにとってキャリア最大の成功となったと同時に、彼にとって初めて真の意味で家族から独立し、初めて自分の独創性を理解してくれたクインシーと作り上げたアルバムであった。また、それまで子役上がりのシンガー/ダンサーとしての評価にとどまっていた彼の才能をようやく世間に認めさせ、弾みをつけたマイケルは、クインシーと共に更なるヒット・アルバム制作に取り組む。

Michael Jackson / Thriller

こうして82年にリリースされたのが、全世界でおよそ1億枚を売り、ギネスにも史上最も売れたアルバムとして認定された『スリラー』である。アルバムは37週連続1位を記録し、音楽史に残るとてつもない記録を残した。

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