ョン・フルシアンテという男をあなたはどのくらい知っているだろうか? かつてはレッド・ホット・チリ・ペッパーズ(以下:レッチリ)のギタリストとしてその音楽性を支えながらも、ソロでは2004年にアルバムを6枚立て続けにリリース(!)。絶えず実験的な作品を世に送り出す、その姿勢に僕たちは魅了された。過去にはヘロイン中毒のためギターを手放し、ホームレス生活を送っていた・・・なんてショッキングなエピソードもあるが、彼のサイトでは、自身の音楽性、ひいては芸術について雄弁に語るほど勤勉な姿勢を持ち、そのインテリジェンスぶりにも驚かせられる。

近年では、ギタリストとしてのイメージを払拭するように、エレクトロニカやヒップホップといった電子音楽へと傾倒、ミックスも演奏も全て自身で行い、独自のアートフォームの形成をストイックに目指している。そして1月8日(水)、ウータン・クランファミリーに所属するラップ・コンビ、ブラックナイツを彼が完全にプロデュースし、楽曲も全て手がけたアルバム『メディーヴァル・チャンバー』が日本先行でリリースされる。そこでQeticでは、フルシアンテの新境地を見せたこのアルバム・リリースを祝し、なんともドラマチックな人生を歩んできた、ジョン・フルシアンテという男について、今一度、その輝かしくも波乱にまみれた歩みを振り返ってみたいと思う。

レッチリに憧れ、ギタリストを志した青年、その成功と挫折。

Red Hot Chili Peppers – “Give It Away”(『ブラッド・シュガー・セックス・マジック』より)

70年、ミュージシャンの両親の元に生まれたジョンは、11歳の頃よりジミ・ヘンドリックスやフランク・ザッパといったヒーローに憧れギタリストを志す。なかでも、15歳のときに観たレッチリのライヴに衝撃を受け、ギター、ベース、歌を完コピするといった熱心な入れこみぶりでひたすら練習を繰り返し、高度な技術を身につけていった。そして彼が18歳の頃、転機は訪れる。彼が尊敬するレッチリのギタリスト、 ヒレル・スロヴァクがオーバードーズにより死去してしまうのだ。既にその才能を認められていたフルシアンテは欠員を埋める形でバンドに加入。当初はヒレル・スロヴァクのプレイを模倣したスタイルで演奏するも、当時まだハードコア・ファンク色の強かったレッチリの音楽性になぞらえて、続く『ブラッド・シュガー・セックス・マジック』ではファンク色を増したギター・サウンドでバンドに発展的なエネルギーを与え、結果としてこのアルバムでバンドは大成功を納める。こうして迎えた世界ツアーの最中、一見絶頂かのように見えたバンドの中で、彼は成功に背反する複雑な感情からいつしか精神を病んでしまい、92年の来日公演中に突如ライヴをキャンセルし、そのままバンドを脱退。その後、鬱病を煩い、かねてより常用していたヘロインに溺れ、一時期はホームレスにまでになってしまう。

ヘロイン中毒の暗黒時代を経て、
レッチリへの復帰を果たしたフルシアンテの転換期

Red Hot Chili Peppers – “Scar Tissue”(『カリフォルニケイション』より)

レッチリ脱退後、まだ残っていた契約の関係からやむなくフルシアンテのソロ第一作はリリースされた。その後、本格的に欝病とヘロイン中毒を患っていった彼は生活に困った挙句、ギターを手放し、ドラッグ欲しさに前作のアウトテイクを使ったソロ作をリリース、彼の音楽への情熱は潰えたかのように見えた。彼の行く先を心配した友人の提案により、97年よりリハビリ施設に入院。薬でやせ細り、歯もボロボロに欠け、別人のように変わり果ててしまったフルシアンテはしかし、2年に及ぶリハビリの末、ドラッグを見事克服する。それまでの生活から一転、自身曰く「生まれ変わった」という程、健康志向の考えに切り変わったフルシアンテ。その話をききつけた彼の長年の親友であり、レッチリのベーシスト・フリーのバンドへの説得により、バンドは中毒を脱したフルシアンテを再びギタリストに迎え入れることに決める(フルシアンテはバンド復帰に際して「あれ以上の喜びはなかった」と語っている)。2年以上に及びギターを弾いていなかったというブランクから、技巧的な持ち味は影をひそめるも、後に「枯れたギター」と称される、叙情的で独特なエモーショナル・サウンドを呼び込み、結果としてバンドは『カリフォルニケイション』という最高傑作を生む。

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