ーザン・ソウルやモッズの時代から、イギリス人はアメリカへの憧れや片想いをカタチにするのがお家芸なのはご存知の通り。ロンドン生まれケンブリッジ育ちのDJハーヴィーは、USAで産声を上げたディスコやハウスをUKに橋渡しした、当時はNU HOUSE、今ではNU DISCOと呼ばれる世界中で拡散し続けるダンス・ミュージックのオリジネーターの一人だ。

「パラダイス・ガラージ(ラリー・レヴァンがプレイしたNYの伝説的なディスコ)には行ったことないんだ。そこがパーフェクトなナイトクラブだったに違いないと想像するだけだよ」と言うDJハーヴィー。ローリング・ストーン誌が選ぶ「世界に君臨するDJ」のトップ10に「DJ界のキース・リチャーズ」としてランクインした彼は、そのヒッピーでワイルドな風貌から「Disco Beards(ディスコの髭男)」という異名も持つ。現在、ロサンゼルスに住む髭を生やしたディスコの神様には、ミラーボールより西海岸の陽光が似合ってるのかもしれない。

【来日25周年記念】DJ HARVEYの歴史やライフスタイルなどまとめてみた

目次:
1.【History】イギリスの片田舎でパンク・キッズがダンス・ミュージックに目覚めるまで
2.【DJ】「DJは寿司職人」と語るDJハーヴィーによるディスコ・アドベンチャー
3.【Music】遅咲きのミュージシャンとしてのハーヴィーの軌跡
4.【Lifestyle】LAをベースにしたハーヴィーのプライベート・ライフ
5.【番外編】HARVEYを知る著名人達からコメントが到着!

1.【History】イギリスの片田舎でパンク・キッズがダンス・ミュージックに目覚めるまで

1970年代にケンブリッジの片田舎で育ったハーヴィー・バセットは、ロックやジャズのレコード・コレクターだった母親や数多くの海賊ラジオ、リベラルな空気の中で子供時代を過ごし、地元のパンク/ニューウェイヴ・バンド、Ersatz(アーサッツ)のドラマーにフックアップされる。「ジョン・ピール(BBC Radio 1の名物DJ)がラジオで俺たちの曲を流してくれたんだ、14歳にとってはクールな出来事だった」。

ERSATZ: Smile in Shadow (7″ single) – YouTube

1985年、いち早くアディダスを着てヒップホップの洗礼を受けていたグラフィティ・ライターの悪友チョッキーにチケットをもらい、ニューヨークに降り立ったハーヴィーは、ブレイクダンスのパイオニアであるロック・ステディー・クルーと共にロキシーやスタジオ54に遊びに行き、DJがレコードの溝を刻んで作るブレイクビーツという手法を目の当たりにする。

遡ること1978年、地元のクラブで24時間踊り続け、グルーヴの知恵熱にとりつかれた彼は、10年後の1988年には、ケンブリッジとロンドンをスクワットして徘徊しながら、レイヴとレゲエが分ち難くミックスされたワイルド・バンチやソウル・II・ソウルのパーティでハングアウトし、ブライトンの高架下にあったというクラブ、ZAPでチョッキーやレヴらとトンカ・サウンド・システムによるウェアハウス・パーティを始める。セカンド・サマー・オブ・ラブの狂騒のまっただ中で。

DJ Harvey playing at Tonka at the Zap 1990

tonka ZAP 1990 – YouTube

*冒頭4分位に髭のない若き日のハーヴィーが登場。早朝のビーチでのアフターパーティの様子も収められた貴重なドキュメンタリー。

1991年、ロンドンのガーデニング・クラブでハーヴィーが立ち上げたUK初のディープ・ハウス・パーティ<モイスト>には、ハーヴィーのコネクションを軸に、ラリー・レヴァンやフランソワ・ケヴォーキアンを始めとするNYのDJたちも数多く出演し、イジャット・ボーイズやフェイズ・アクション、後にマップ・オブ・アフリカでタッグを組むトーマス・ブルックら、NU HOUSEシーンを形作る人々が足繁く通うことになる。だが、1994年のクリミナル・ジャスティス法(反復するビートを禁止し、レイヴ・カルチャーに冷や水を浴びせた悪名高き法律)が成立すると、ハーヴィーは「モイスト」を閉じ、ロンドン初の巨大クラブとなるミニストリー・オブ・サウンドのレジデントとして名実共にトップDJの階段を昇りつめる。

次ページ:「DJは寿司職人」と語るDJハーヴィーによるディスコ・アドベンチャー