2016年7月22日(金)、23日(土)、24日(日)の三日間、新潟県 湯沢町 苗場スキー場で今年も開催することが発表された今年も国内最大級のロックフェスティバル<FUJI ROCK FESTIVAL ’16(フジロック・フェスティバル ’16)>。先日には出演アーティストの日割りも発表され、夏への期待が益々高まっているのではないでしょうか?!

記念すべき20回目を迎える今年の<フジロック>。オフィシャルショップ「岩盤」によるウェブメディア「富士祭電子瓦版」では、<フジロック>を主催するSMASH(スマッシュ)の代表・日高正博氏のインタビュー「TALKING ABOUT FUJIROCK」の中編が掲載されています! 今回の中編では伝説となった97年、1回目の<フジロック>、レッド・ホット・チリ・ペッパーズや、ザ・イエロー・モンキー、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンのライブのことも語っています。必読!

text by Qetic

各界のキーパーソンによって<フジロック>を語り尽くすコーナー「TALKING ABOUT FUJI ROCK」。『富士祭電子瓦版』が立ち上がって以降、大物女優から人気お笑い芸人まで、様々な著名人が登場した本コーナーに、ついに登場するのは……<フジロック>を主催するSMASH(スマッシュ)の代表・日高正博氏! <フジロック>が記念すべき20回目を迎えるということで、「TALKING ABOUT FUJIROCK」特別篇をお届け!

『富士祭電子瓦版』の立ち上げ人であり、<フジロック>オフィシャルショップ・岩盤 / GAN-BANの代表を務める豊間根聡氏が、日高氏の自宅にて、3時間に及ぶインタビューを敢行。前編は、<フジロック>開催前までの出来事を生々しく語ってくれましたが、中編となる今回は、今なお語り継がれている1997年の第一回の<フジロック>、そして会場を豊洲に移した第二回目の1998年の<フジロック>にフォーカス。天神山での初開催にいたる経緯から、波乱に満ちた当日の裏話、そこから1年の間に起こった様々な出来事まで、どこにも語られることのなかったことも含め、<フジロック>立ち上がりの2年間で起こったすべてが明らかに!

Interview:SMASH 代表・日高正博氏

豊間根 97年、1回目の<フジロック>の話に入りましょう。なんと言ってもあの時のラインナップは今見てもスゴイですね。

日高 うん。でもさ、97年のラインナップがすごい、すごいと言っちゃったら、他の年のラインナップが悪いように聞こえちゃう。それはミュージシャンに失礼だから。そこは誤解を与えないようにして欲しい。

でもこれは聞いて欲しいと言うか、あの頃はね、俺の人生の中でも本当にいろいろあったんだよ。表現できない、いわゆる不安との戦いだったんだよね。一年かけて天神山を口説いて。ウチの連中には何も言わないでね。<フジロック>みたいなものをやるとも言わないで。でも噂はひとり歩きするんだよね。社内や社外のスタッフの中に、「日高がなにか変な事考えているみたいだぞ」って。で、ある時みんなに話して。「今から場所を見に行くぞ」って。

豊間根 社内のみなさんと?

日高 そう、はじめて連れて行ったんだよ。その時は全部交渉ごとを終わらせた後だったんだけど(笑)。天神山のスキー場もね、最初反対だったんだよ。上九一色村が、ど真ん中だったからさ。ちょうどオウムの事件がその前の年だったかな。それの悪評があって。上九一色だけでなく、隣の村も富士五湖も含めて周辺一体が良くないイメージがたったからさ。そりゃそうだよな、毒ガスだのサリンだのって話だもん。そういうのがあったから、怒鳴りつけられた事もあったよ。俺、殴ろうかと思ったもん。勝山村の村長。これ書いていいよ。もういないから。

豊間根 え、殴ってやろうかと思った!?

日高 挨拶に行ったんだよ。で、いるだろ? 田舎のろくでもないトップ。机の向こうでふんぞり返ってさ。「ああ……なんか、わけわからんけど。まあ……ねえ」って、そんな感じだった。で、開催発表した。テレビでも発表して、新聞にも載っている。でもそのバカな村長はさ、そういうの見てないんだよ。で、一ヶ月経ってから天神山スキー場の人経由で呼びつけられた。で、行ったらさ、怒鳴りつけるんだよ、「何でこんなことやるんだよ!?」ってさ。俺が「OKって言ったじゃないですか!」って言ったら、村長が「ええ!? 俺、言ったか?」だって(笑)。そんな感じだよ。実は、その人がなんで知ったかっていうとさ、地域のミニコミ誌を見て知ったんだよ、一ヶ月遅れのね。ってことは、こいつは新聞も読まない!新聞も読まなきゃ何も見ない!こんなのが村長かよ!? って思ったよね(笑)。だからここに書いていいって言ったんだよ。当時の勝山村の村長。他の人たちは良かったんだけどさ。

豊間根 そうだったんですね。ちなみに今ではすでに定着している「フェスティバル」の概念って、一般的にあった時代じゃないですよね?

日高 ないない。わかんないよ。

豊間根 じゃあ説明してもわからない?

日高 要するに“ロック”っていう言葉にまず偏見があったからね。だから苗場の時には反対派の人たちに、敢えて悪い事しか言わなかった。反対派がいっぱいいたから。住人の50%が反対だったからね。「いやー、それはもう大変ですよ」と。「ゴミは出るは、入れ墨にピアスです!!」とか言ってさ(笑)。俺は、悪い事しか言わないから。いいことだけしか言わない、っていう方がおかしいからね。

豊間根 なるほど。

日高 でもまあ、97年は確かにね、アーティストはもの凄く協力的だったよね。例えばさ、(レッド・ホット)チリ・ぺッパーズの出演が決まって、レイジもいただろ? あとはフー・ファイターズがいて。俺としては「文句ねぇだろ!?」って思うんだけど、やっぱり不安になるんだよ。初めてのアウトドアでキャンプ、それも東京から離れている。俺はさ、失敗したら会社は倒産だと思っていたからね、当然。俺、そういう瀬戸際まで自分を持っていかないとやれないんだよ。例えばスタンディング・ギグをやるって時にしても、売れてないアーティストだから、それは先が分かんない。リスクは当然もの凄く高かった。そうやって、どっかでギリギリまで自分を追い込みたいていうのが潜在下にあったんだろうな、って思う。そう考えると、10代の頃からそうなんだよな。先行き考えないで、今やりたい事をやるっていう。で、まあ97年の開催前、3月〜5月ってのは苦しかったよね。昼間はさ、「バンドは決まった!もうこれで十分だ!」って思う。で、夜になって酒を飲んで「もう十分だよな?」って。家に帰るともう悪夢に襲われるんだ。「本当にこれでいいのか? 本当にこれで十分なのか?本当にこれでお客さん来てくれるのか?」って、強迫観念になっちゃう。怖くてしょうがなくなる。怖かったんだよ。それであのラインナップになるわけよ。時間設定無視だよね。夜中の12時を超えることは間違いないんだから。俺の「これでもかっ! これでもかっ!」っていう原点はあそこにあったんだよ。

豊間根 日高さんでも「怖い」と思った……。

日高 やっぱり不安感が強かった。それで2日目については、最初はヘッドライナーはベックで話してたんだよ。そうしたらグリーン・デイが飛び込んできたんだ。マネージメントが「出してくれ」って。もう「ありがとう」と。「完璧だろ!?」って思うよね。ベックにグリーン・デイ、その前にザ・シーホーセズ、「文句ねぇだろ!?」って。でも、夜寝れねぇんだよ。それでさらに、どうなったかって言ったら、もう番外編だよ。時間無視のプロディジーだよ。プロディジーまで突っ込んだ。自分のなかの強迫観念の固まりが、ああいうブッキングになったんだよ。だけど今振り返れば、やっぱりすごいラインナップだったと思う。それは彼らの協力があったから出来たんだよ、ほんとに。「日本で初めての本格的な野外フェスティバルに出たい!」って。これは嬉しかったよ。日本のアーティストの方が「えぇ?」って感じだったから(笑)。

豊間根 チケットの売れ行き、気になりました?

日高 なったなった。ウチの会社は、多分こういう仕事の中で、一番最初にチケットをウェブサイトで売り始めたと思うんだよね。で、売り出してから一日目が700だったんだよ。700……かと。喜んでいいのか、ガッカリしていいのか、分かんないんだよね(笑)。不安だったからさ、うちのチケット担当の半田さん(スマッシュ)に「これって喜んでいいのかな?」って聞いたら、「私も分かんない」って言われて(笑)、初めてだから。結果的に2日間ソールドアウトになったんだけどね。

豊間根 ソールドアウトして、日高さんの不安は一旦は落ちついたんですか?

日高 「ああ、もうこれ以上バンドをブッキングする必要はねえな」って思った。売れなかったら「また考えよう」だもん。

豊間根 どのくらいでソールドアウトになったんでしたっけ?

日高 1日目と2日目で、2日目の方が若干遅かったんじゃないかな。やっぱりまだ当時は、動きはスローだった。ひと月はかかったんじゃないか? 今だったら、ブン! だよな。やっぱりお客さんからみれば、わけわかんないでしょ?どうやって行けばいいの?どこに泊まるの?みたいなさ。トイレは? 駐車場は? っていう問題があるからさ。

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