ビースティー・ボーイズ、ジャック・ジョンソンのプロデューサーとして知られるマリオ・カルダート Jr.(Mario Caldato Jr.)にメールインタビューを行い、アルバムの制作秘話、プロデュースの手法、ジャック・ジョンソンとの出会いなどを伺いました。

また、マッシヴ・アタックのレーベル〈Melankolic〉より、2000年に『Ordinary Man』で鳴りもの入りでデビューを果たしたフェリム・バーンとマシュー・ハードウィッジの2人によるユニット、デイ・ワン。3枚目のアルバムプロデュース秘話も語ってくれています。

Interview:マリオ・カルダート Jr.

――出身地やルーツ(家系)などよろしければ教えてください。素晴らしい家族(奥様や子供等)のことも差し支えなければお聞かせください。

僕の父親がイタリア出身なんだけど、1950年代にブラジルに引っ越して、ブラジル人の母と結婚したんだ。二人はサンパウロで出会って、僕はサンパウロで生まれたんだ。僕が2歳半の時に、姉も一緒にアメリカに引っ越して。僕の妹は、アメリカで生まれた。僕は結婚していて、15歳と12歳の娘がいるよ。数年前から家族と一緒にブラジルに住んでいるけど、今もロサンゼルスが拠点だね。

――幼少時代や学生時代どんな環境で過ごしましたか? 音楽との出会いはいつだったのでしょうか?

父親がエレクトリック・オルガンを4歳の時に買ってくれたんだ。一緒にお店に行って、楽器のデモンストレーションを見て、買うことになったんだ。家で演奏したり、何回か無料でレッスンを受けたりしたね。僕が9歳から10歳のときに家族がピアノも買って、それから僕はピアノのレッスンを受けるようになった。12歳か13歳の時に、友達がザ・ビートルズを好きで、カバーバンドをやるようになった。当時の僕はパーカッションとキーボードを担当していたね。そのあとは15歳のときにスクールバンドに入って、別の学校に転校してからもバンドをやっていたよ。

しばらくしてから、音楽を演奏するよりもレコーディングすることに興味を持つようになって。友達のマーク・ニシタ(マニー・マーク)と出会って、彼が4トラックのTEACの「リール・トゥ・ルール・レコーダー」を持っていたんだ。彼は自宅でデモを録音するためにそのレコーダーを使っていたんだけど、彼の家は狭くて。僕の家の裏に離れがあったから、そこに機材を入れて、マークが演奏、僕がレコーディングを担当して、そうやって僕はレコーディングやプロデュースの技術を学んだんだ。

――あなたは世界的に有名なプロデューサーで、技術や知識だけでなくアーティスティックで、様々なアーティストの個性やアイデアを引き出す「魔法使い」として知られています。アーティストから最高のパフォーマンスを引き出す秘訣は何でしょうか?

アーティストに良い演奏をしてもらうには、彼らのアイデアを尊重して、まずは自由に表現してもらうことが大事なんだ。彼らから出てきたものを出発点にして、そこに僕のアイデアを提案して、彼らのアイデアを補う。プロデューサーとしてオープンな姿勢を持って、相手のアイデアを聞くことが大事だよね。それが秘訣だね。そうすることで、ユニークなものが作れるんだ。

【インタビュー】ビースティー・ボーイズ、ジャック・ジョンソンのプロデューサー?マリオ・カルダート Jr.とは? interview160920_marioc_1

――〈Delicious Vinyl〉の時代のアーティスト・プロデュースの秘話やヒップホップに傾倒していた頃の話を聞かせてください!

「Power Tools」というクラブでDJをしていたマット・ダイク(注:マット・ダイクはダスト・ブラザーズの初期メンバーでもあり、〈Delicious Vinyl〉の創始者の一人)に偶然出会ったんだ。そのクラブに、マークの兄のマイク・ニシタと遊びに行って、その時にライブを見たんだ。3人のラッパーとDJがステージにいて、彼らがパフォーマンスする時に、DJが最初のレコードをプレイして、爆音のTR-808の低音が鳴って、サウンドシステムが壊れてしまった(笑)。音が全て消えてしまって、僕は観客としてその場にいたんだけど、そのグループは演奏できなくて残念がっていたんだ。そこで、僕はサウンドエンジニアを探したんだけど、見当たらなくて、僕はセキュリティの人に、「クラブのオーナーは誰?」と尋ねると、ある人に指をさして、「あの人がジョン・サイデルだよ」と言ったんだ。彼に「サウンドエンジニアはいますか?」と尋ねると、「サウンドエンジニアはいないけど、君は音響関係に詳しいの?」と聞かれたんだ。僕はすでにPAやサウンドシステムの経験が数年前からあったから、「僕はサウンドエンジニアをやっています」と言うと、彼はクラブの機材を見せてくれたんだよ。機材の状態がひどくて、アンプもとても小さかった。808の音が大きすぎて、アンプが飛んでしまったんだね。数分後に音が戻ったけど、バンドは既に帰ってしまったんだ。

そういうことがあって、そのクラブでDJをしているマット・ダイクと出会ったんだ。僕もそのクラブで働くようになって、次の週からサウンドシステムのセッティングをしたんだ。マットは素晴らしいDJで、様々な音楽をミックスして、パーティーを盛り上げていたね。彼を通して、シュガーヒルとか、Enjoy、ビジー・ビーなどのクラシックスを知ったんだ。彼はレーベルを立ち上げて、プロデューサーをやるようになって、それが〈Delicious Vinyl〉になったんだ。僕は、彼のアパートにスタジオを作ることを手伝って、そこでトーン・ロークなどがレコーディングされたんだよ。

――ビースティー・ボーイズとの出会いや『Paul’s Boutique』(1989)、『Check Your Head(1992)の作品のエピソードなど教えてください。

先ほど話したマイク・ダイクがビースティー・ボーイズに出会うきっかけになったんだけど。トーン・ロークとヤングMCは、〈Delicious Vinyl〉からリリースされた最初の二人のMCだったけど、それが驚くほど成功して。ビースティー・ボーイズは新しいサウンドとプロデューサーを求めているという噂をマットが聞きつけて、マットはプロデューサーとして、彼らに新たな方向性を提示できると確信していたんだ。

ちなみに、マットは、のちにダスト・ブラザーズとして知られるプロデューサーチームとトラックを作っていたんだけど、彼らは当時イージー・マイクとキング・ギズモと名乗っていた。実は、マットを含めて、3人がダスト・ブラザーズになったんだ。僕らはこのメンバーと一緒に、トーン・ローク、ヤングMC、デフ・ジェフなどのプロジェクトを制作した経験があったんだ。

そして、ビースティー・ボーイズたちにデモ・トラックを送ったら、彼らはすごく気に入って会いに来てくれたんだ。ビースティー・ボーイズを含めて、みんなでマットのハリウッドにあるアパートに集まったんだけど、そこがデリシャス・ヴァイニルのスタジオでもあった。 彼らはこのトラックの上でラップをして、〈Capitol Records〉と新しい契約を結んだんだ。

『Paul’s Boutique』は素晴らしい作品だったけど、サンプルのライブラリーを作るのに時間がかかってしまって、制作に9ヶ月間かかったんだ。ビースティー・ボーイズのメンバーはニューヨークとLAを行き来して、レコーディングしていて、彼らはLAで家や車をレンタルして生活していたんだ。とても自由でオープンな制作プロセスだったし、サンプルで色々な実験ができた作品だった。ダスト・ブラザーズのプロダクションも素晴らしかったし、ビースティー・ボーイズと僕らの息も合っていた。ビースティー・ボーイズがレンタルしていた家でみんなすごく楽しく過ごした思い出があるよ。

Beastie Boys – Hey Ladies

アルバムがリリースされた時、僕らはとても興奮していたけど、〈Capitol Records〉内で色々な変動があって、社長も解雇されて、レーベル側はあのアルバムをどうやって売り出せばいいか分かってなかった。だから、あのアルバムはしばらくお蔵入りになってしまったんだ。ビースティー・ボーイズはこのアルバムのツアーをしたがらなかったから、すぐに次のアルバム『Check Your Head』の制作に没頭することになった。

高価なスタジオに入ってレコーディングするより、自分達でスタジオを作ることにして、ビースティー・ボーイズのマイク・Dが住んでいたLAのアットウォーター・ヴィレッジというエリアにスタジオのスペースを見つけて、マークがG-Sonスタジオの建設を手伝ってくれたんだ。そこはクラブハウスのような雰囲気で、広々としたスタジオだったから、その中にバスケット・コートを作ったり、アダム・ヤウクがスケートランプをその中にたてたりしたね。とても自由な空間で、音楽的な実験がしやすかったよ。2インチの24トラックのコンソール、サンプラー、レコードなどの機材をスタジオに持ち込んで、誰にも邪魔されずに、自由に制作できた。だから、『Check Your Head』という素晴らしい作品が生まれたんだ。その次の『Ill Communication』の一部も、そこで制作されたんだ。だから特別な時代だったし、素晴らしい場所だったよ。『グランド・ロイヤル・マガジン』も、同じくG-Sonスタジオで作っていたんだ。

Beastie Boys – Pass the Mic

――ジャック・ジョンソン(アメリカ合衆国ハワイ州オアフ島出身の男性ミュージシャン・シンガーソングライター、また、サーファー、映画監督、実業家、プロデューサーとしても活動)のアルバムでもプロデュースを手掛けていますよね。あなたの〈Brushfire Records〉やジャックとの出会いなど教えて頂けますか?

ジャック・ジョンソンのマネージャーのエメット・マロイから連絡があって、ある映画のサントラのために、ジャックの曲のリミックスをしないかというオファーをもらって。ジャックはビースティー・ボーイズ、ア・トライブ・コールド・クエストなどのヒップホップが大好きで、僕にリミックスの依頼が舞い込んだんだ。

ライブ演奏の素材を渡されたんだけど、リミックスしづらそうだったから、その曲をレコーディングし直そうと提案すると、ジャックとバンドはその提案を気に入ってくれて、僕のホームスタジオに来てもらうことになって。そこで、同じ曲の別バージョンをレコーディングしたんだ。

ジャックは、家でレコーディングできることに驚いていたよ。ドラムがリビングにセッティングしてあって、ギターとボーカルマイクなどはベッドルームにセッティングあるから、とても快適な空間だね。ジャックは家でここまでレコーディングできることに驚いて、ハワイで買った家でのスタジオ建設を手伝ってほしいと相談されたんだ。ちょうど家族と同時期にオアフへの旅行を計画していたから、彼のノースショアにある家を見に行ったんだ。

彼の家を見て、建設関係の仕事をしている彼の兄と会って、車庫がちょうどスタジオに使うのに適していたから、そこにコントロール・ルーム、レコーディング・ルーム、アイソレーション・ブースの建設する計画を提案したんだ。

半年か8ヶ月後くらいにジャックから電話があって、「次のアルバムをレコーディングしよう」と言われたんだ。僕のエンジニアのロバート・コランダにハワイに来てもらって、ジャックのセカンド・アルバム『On And On』を21日間でレコーディングしたんだ。
Jack Johnson – The Horizon Has Been Defeated

そこからまた新たな関係が生まれて、サードアルバム『In Between Dreams』もレコーディングした。『From Here To Now To You』もハワイで一緒にレコーディングしたね。ジャックのスタジオは本当に楽しくレコーディングできる場所だし、アットホームな雰囲気があるんだよ。

―ここ数年間はどんなアーティストをプロデュースしてきましたか?

過去2年間はブラジルでの仕事が多かったね。もちろんデイ・ワンと仕事をしたし、何年も前から一緒に仕事をしているセウ・ジョルジ(Seu Jorge)という素晴らしいブラジルのアーティストの作品も手がけた。彼の前作『Musica para Churrasco Vol. 2』をレコーディングしたね。

サンフランシスコのコンブリオ(Con Brio)というエクレクティックなバンドとも仕事をした。ブラジルのアイモレーコ(Aymoreco)という9月にリリースされるおもしろいプロジェクトも手がけた。サンパウロのフィンガーフィンガー(FingerFingerr)というバンドとも仕事をした。サンティアゴ・クルーズ(Santiago Cruz)というアーティストを、僕のパートナーのカシン(Kassin)と共同プロデュースをした。サンティアゴ・クルーズはコロンビア出身のシンガーなんだけど、もう少しでリリースされる。ブラジルのアルヴィーノ・ランセロッチ(Alvinho Lancelotti)というリオのアーティストの新作のミックスを手がけていて、ドメニコ+2(Domenico + 2)で知られるドメニコ・ランセロッチ(Domenico Lancelotti)と兄弟なんだ。タミー・マセド(Tamy Macedo)というブラジル出身で、ウルグアイに住んでいる女性アーティストとも仕事をしている。ジェズトン(Jesuton)というイギリスのシンガーとも仕事をしたし。デヴィ・ノヴァ(Devi Nova)というシンガーとは現在レコーディング中なんだ。アルゼンチンのバンダ・ディ・トゥリスタス(Banda de Turistas)とも仕事をしたよ。

Seu Jorge – Motoboy (Lyric Video)

次ページ:デイ・ワンのプロデュース秘話とは?