KO KIMURA
INTERVIEW

日本DJ界のパイオニア。KO KIMURAが見てきた国内外クラブシーン30年史

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昨年DJ30周年という節目を迎え、国内クラブシーンを聡明期から現在までリードし続けている、日本DJ界のパイオニア、KO KIMURA

若干18才にしてプロDJとしてのキャリアを名古屋でスタート。19才で上京すると、西麻布界隈を中心に、東京での活動を活発化させる。1989年にオープンした国内ナイトクラブシーンの原点でもある、芝浦GOLDでレギュラーを持つと、その後も、SPACE Lab YELLOW(以下、YELLOW)、WOMB、AIRなど、東京を代表とするクラブで自身のレギュラーパーティを盛り上げ、同時に全国各地でもプレイをしてきた。YELLOWのレギュラーパーティ、<KOOL>は爆発的人気を誇り、12年以上続いたYELLOW史上最長のイベントとなった。

日本での活躍は海を渡り、90年代半ばより、アジア圏を中心に海外からのオファーが増えはじめる。90年後半には、当時世界最大のクラブのひとつ、MINSTRY OF SOUNDのメインフロアでもプレイ。ドイツ万博では日本代表DJとして参加。ヨーロッパ、南米などでもプレイをし、世界中のフロアから支持され続けている。

移り変わりの早い音楽業界で、KO KIMURAはいかようにして、日本を代表するDJとなったのか。DJ・音楽家として30年以上活動するということとは。30年以上見続けてきたクラブシーンについて。今回は全編・後編に渡り、インタビューを通じて、紐解いていく。

Interview:KO KIMURA

KO KIMURA

――幾度となくこの質問を聞かれていると存じているので、大変恐縮ですがKOさんがDJを始めたきっかけを教えていただけますか?

元は小学生時代に学校の放送委員会に入っていて、レコードをセレクトして校内で流していたりしたんですよね。だけど4年生までは、「この曲を流したい!」という希望は通らないんです。それでも、5年生になると好きな曲を流せることができるようになって、自分が好きなマニアックな曲とかを流すようになりましたね。

――ちなみにどのような曲を流していたんですか。

フュージョンだったり、渡辺貞夫さんだったり。それと、映画音楽も好きで、『ポセイドン・アドベンチャー』や『タワーリング・インフェルノ』『007』のテーマのサントラとか(笑)。小学校6年生の時には、YMOが流行りだして、そこからクラフトワークなどに派生して、ニューウェーブにも興味が沸いたから、お年玉や実家の家業の手伝いでお小遣いをもらって、買い漁って流していました。皆は歌謡曲が好きだったので、単にそれと同じ事をするのが嫌だったんです(笑)。

――渡辺貞夫さんやクラフトワークが流れるなんて、かなり独特な放送委員会ですね。

中学校に入った頃には、ニューウェーブっぽいものは洗練されている感じがしましたしファッションも好きだったので、皆がロックに流れて行く頃、天の邪鬼な僕はその方面に流れていきました。中学3年生の頃になると、デュラン・デュランの様なニュー・ロマンティクス系や、ニュー・オーダーとかが流行りはじめて、その時に楽器をはじめてみようと思い、キーボードを買ってみましたが、教えてくれる人もいなかったので全くできなくて無駄になったり(笑)。

そんな時に、1982、3年頃に、ヒップホップをベースにしたDJっていうものがN.Yで流行っている事を雑誌や友人関係で知り興味を持って、バイトして直ぐに、まずは一台だけターンテーブルとミキサーを買いました。もう一台は家にあった家庭用のターンテーブルで。楽器はできないけど、レコードは沢山持っていたし、クラフトワークやニューオーダー、デペッシュ・モードなどをミックスしてDJの練習をし始めて、スクラッチもやりたいからスクラッチもやっていましたね。

KO KIMURA

KO KIMURA 17歳。この頃は1日最長14時間くらいスクラッチ練習。

KO KIMURA

高校生当時、DJを始めた頃。

次ページ:当時はその世代のスクラッチで有名な人だとヒロシ(藤原)君しかいなかった印象ですね。

Mako Masaya

ライター

大学在学中、100~700人規模のパーティー及びインディーレーベルのイベント企画・運営をマンスリーで経験。その後、アパレルに特化した代理店、アパレルメーカー 、飲食運営、出版・制作会社に勤める。転職間の数か月に、ニート・フリーターも体験。そのすべてを経て、現在ひとりで音楽・地域誌、ムック本発行を中心に編集・物書、企業イベントコーディネーターに至る。 これまでの経緯から、多種多様なクリエイターと出会い自身は”編集・物書”・”イベントプランナー”だが、多岐にわたりクリエイティヴな活動をしている人、団体と共同体となり、多角的な視点から企画立案し、制作案件に挑戦。多種多様だが、すべてを通じて得た、貴重な『経験・体験・出会い』、そして産まれる”縁”。その繋がりを重んじ、縁を繋ぎ円にし、自らをソーシャル・デザイナーと名乗り、その円から、社会のデザインを試みている。

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