第44回 ある晴れた日に

日、僕の子供が産まれた。少し大きめの女の子。産まれた瞬間からギャーギャー泣かれるのかと思っていたけど、実際は小熊の寝言の様な泣き声だった。耳を近づけると、その声がとても柔らかいという事に気付く。僕は彼女の耳に口を近づけて出来るだけ小さい声で話しかけようとした。するとヒゲが痛かったらしく彼女は力強く泣き出してしまった。疲れた顔の妻がベッドから僕らを見る。「この子を最初に泣かせたのは僕だぞ」そう言うと妻は少しだけ愛想笑いをしてくれた。

僕はカメラマンだった。学生時代に撮りためていた写真を集めた個展を開催した時、たまたま観に来ていた広告代理店の社長に写真を気に入られて、次の週にはプロになっていた。数々の広告や雑誌の表紙などの撮影を手がける毎日の中、睡眠と食事にかける時間は日に日に少なくなっていく。誰かに習ったわけでもなく完全に自己流で写真を撮っていた僕にとって、同業者に見られても恥ずかしくない写真を撮る事がいつの間にか1番大事になっていた。そんなある日、渋谷を歩いていた僕はビルに掲げられた巨大な広告を目にする。「デカいだけで全く魅力の無い写真だ」そう思った瞬間、その写真が自分で撮影したものだと気付いた。プロのカメラマンになって8年。僕はカメラマンを辞めた。

カメラを置いて1年間、妻は何も言わなかった。僕の写真が僕の写真じゃなくなっていた事にとっくに気付いていたんだと思う。確かに僕の写真が表紙の雑誌を一緒に買いに行く恒例行事もなくなっていた。僕の写真の1番のファンだった妻の変化を完全に見逃していたのだ。だから陣痛が始まった妻に突然「カメラを持って来て」と言われた時は、驚いたけど凄く嬉しかった。分娩室に入って行く妻を見送り、僕は久しぶりにカメラを取り出した。思っていたよりズシリと重い。ファインダーを覗くと、四角く区切られた無限の世界が僕をまた優しく迎えてくれた。まだシャッターは押さない。もう撮りたいものしか撮らない。うぶ声を待ちながら僕はそう決心していた。