第93回 その手を離せ

ジャリジャリと鎖を引きずる音がする。一体何の音だろう、と振り向くと汚れた犬が僕を見上げていた。思い詰めたような表情、そして首に繋がれた重そうな鎖。この犬に何か問題が起こったのは間違い無さそうだ。こんな重い鎖をペットの首に繋ぐ飼い主はいない。僕はゆっくり近づいて話を聞いてみることにした。

「俺は子供の頃ペットショップで売れ残ってしまって、ブリーダーに連れて行かれたんだ。保健所じゃないだけましかと思ったら冗談じゃない、生き地獄だったよ。毎日繁殖のために嫌がるメスを抱かされる。拒否権なんてない。生きるために誰かを傷つける日々に俺は疲れ切ってしまっていた。そしたら昨日のことさ、彼女が連れて来られたんだ。一目惚れだよ。後ろ足が少し曲がっていて売れ残ったらしい。向かい合った檻の中で俺達は一晩中話した。自分のことより俺のことを心配してくれる彼女。俺はその優しさに触れて本来の自分を取り戻したんだ。そして彼女と一緒に逃げようと決意した」

「やせ細ってからでは脱走なんて到底不可能だ。だから俺は今朝、一瞬の隙をついて檻から飛び出し彼女の檻を2人でこじ開けた。追いかけ回されるままに屋内を必死に逃げ回った。失敗したらもう2度と外には出れないって分かってたからさ。やっとの思いで施設から脱出したんだけど振り向くと彼女はいなかったんだ。逃げ切ってくれたと信じて色々探しているんだけどどこにもいない。もしかして捕まってしまったのかも知れない。俺はなんてことをしてしまったんだ」

堰を切ったように話をした彼はどっと疲れが出たらしくその場に座り込んでしまった。首の鎖を外してしばらく頭を撫でていると、向こうから男が歩いてくるのが見えた。肩で息をしているその男が掴んでいる鎖の先には、憔悴した犬が繋がれている。彼女は捕まってしまったんだ。近づく彼女の臭いに気付いた瞬間、彼は飛び起きて目を見開き、男に向かってものすごい勢いで駆け出していった。男が身構える。僕は外した鎖を持ったまま、その場で立ち尽くすことしか出来なかった。