第90回 あなたとならば

「母親がいれば大丈夫。男の子なんて勝手に育つんだから」近所のおばあちゃんがそう言って励ましてくれたけど、男兄弟を女手ひとつで育てるのはとても大変だった。2年間はどうにか頑張れた。でも仕事と家事だけの毎日に追われた私はすり減ってしまい、どちらも上手く出来なくなってしまった。息子達の弁当におかずを入れ忘れたり、簡単な仕事でミスをして同僚に迷惑をかけたり。些細なことで怒鳴り散らす私におびえる息子達の表情を見て、私は自分がおかしくなっていると気づいた。

そんな時に助けてくれたのが部下の山下だった。会社のデスクで人目も憚らず泣き出した私を、誰もいない会議室に連れ出してくれた。それから山下はたびたび声をかけてくれるようになり、いつしか私は山下を好きになっていた。全然気がつかなかったけど彼は元々私に惚れていたらしい。数週間後、私に対する敬語が抜けないまま私達は恋人同士になった。

夏が終わる頃、私は山下を息子達に紹介した。最初は警戒していた息子達も「僕は君達のママの手下だよ」と言った彼のことを気に入ってくれた。男同士は馬鹿なことを一緒にやると仲良くなる法則があるらしく、次々とくだらない遊びをした3人は、その日のうちにすっかり仲良くなってしまった。帰り際、どこか行きたい場所はある? と聞く山下に「プールに行きたい!」と息子達は声を張り上げた。今まで私には「プールに行きたい」なんてひと言も言わなかった。こんなに小さい子達に気を使わせていたなんて。でもその小さな思いやりが嬉しかった。

翌週、私達は4人でプールに出かけた。堂々と男子更衣室から出て来た息子達がたくましく見える。興奮状態の兄弟の手をしっかり握っていた山下が、突然走り出してプールに飛び込んだ。奇声を上げて彼に続く息子達の姿。私はこの瞬間を忘れたくない。この先ずっと。

photo by takeshi ochiai