第80回 神輿が静かに揺れている

妻の目覚まし時計がけたたましく鳴っている。もう何分も鳴りっぱなしだ。最近仕事で疲れているのを知っていたから「もう少し寝かせてあげたい」と思いながらも寝室まで彼女を起こしにいった。すると彼女はベッドに腰掛けて俯いている。なんだ起きてるじゃないか、僕は目覚まし時計を止めて「おはよう」と声をかけた。返事が無い。少し待って肩を叩くと、彼女は驚いて僕を見上げた。その時の強ばった表情ですぐに異変に気付いた。どうしたの? 気分が悪いの? と声をかける僕を遮って「何にも聴こえないの。自分の声も聴こえない。私普通に喋れてる?」と彼女は言った。突発性難聴だった。

積もり積もった心労が彼女から聴覚を奪った。ほどなくして妻は仕事を辞めた。相変わらず耳は聴こえないまま。他人との接触を避けるかのように朝遅く起き、近所の公園で何時間も小説を読んでいる妻に、僕はかける言葉が見つからなかった。そんなある日、妻は興奮気味に散歩から戻り、その足で僕を強引に外に連れ出した。急いで連れて行かれたのは近所の秋祭り。丁度神輿が神社に戻る所だった。威勢の良いかけ声と共に大勢の人々が汗をかいている。「御神輿なら私も参加出来る。耳が聴こえなくてもきっと大丈夫」妻はそう言って目を輝かせた。妻がこんなに晴れやかな表情をしたのはいつぶりだろう。

「よく似合ってる、本当だよ、よく似合ってるよ」自分のはっぴ姿を何度も何度も僕に確認させて、妻はようやく玄関から出て来た。買っておいたはっぴを着込んだ妻と僕は、これから一緒に近所の秋祭りに向かう。2人にとってこの1年はとても長くて苦しかった。でも、初めて遊園地に来た子供のような妻の姿を見ていると、いつか全部笑い話に出来る気がする。いつもより随分と早足で歩く妻との距離が開く。僕は振り返って欲しくて彼女の名前を呼んだ。聴こえていなくてもいい。それでもいい。