第59回 演じる女

俳優養成所に通い続け、芽が出ないまま40歳を過ぎ、俺は俳優養成所の講師になった。もちろんいくつかの舞台には出演したし、テレビドラマで演技をした事もある。しかし、俺が思い描いていた俳優の理想像とはあまりにかけ離れた生活が続いた。こんなはずじゃなかった、と誰もが養成所を辞めて行き、気付けば同期なんて一人もいない。20年間繰り返し同じ事を教えられていた俺は、いつのまにか授業を丸暗記していて、成績は常にトップ。ただの講師になるには十分だった。

  
たいした努力をしなくても最高のパフォーマンスができる天才がいる。俺が20年間かけて出来なかった演技をものの5分で演じてしまう瞬間が俺は大嫌いだ。まさにそんな生徒がいる。どんな時も彼女は明らかに他の生徒と違っていた。涙を流す演技の練習中に気持ちが入り過ぎて気絶したり、キスシーンの練習では相手が逃げ出すまで彼女はキスを止めなかった。入学からたった数ヶ月でCMのオーディションに合格し、今度は短編映画で重要な役を演じるらしい。養成所の誰もが彼女に劣等感を感じていた。中でも俺が筆頭だったのは間違いない。

今朝、ドラマのオーディションに行くと言う彼女を強引にカフェに連れて来た。講師である俺の底の浅さを既に見抜いてしまっている彼女は機嫌が悪かったが、まだ養成所の講師からの推薦状も必要なため、我慢して静かにソファーに座っていた。「もう君には教える事は無いが、ひとつだけ忠告しておきたい。君は目を閉じた時、マブタの中で瞳が動いてしまっている。つまり、死ぬ演技が出来ないという事なんだ。瞳の動きを止めるには、目を閉じて、さらにもうひとつマブタがあると想像するんだ。さあ、やってみなさい」

見下していた講師からの思いがけない真剣な指導に、戸惑いながらも彼女はしっかりと目を閉じた。マブタは動いてないぞ、その感じだ、もう少しそのまま続けなさい、俺は彼女にそう言っておいて、ポケットから取り出した薬剤を彼女のコーヒーに注いだ。これで今日からオーディションには行けないだろう。彼女に視線を戻すと、表情は酷く青ざめ、本当に死んでいるかの様だった。相変わらず嫉妬させる演技だ。俺はどこか満足してそのまま静かにカフェを出た。直後、彼女がコーヒーを飲まずに捨てた事も知らずに。

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