第129回 More Than Words

会話も無く引っ越しの準備をしている私達。別居なんて離婚と一緒だって思っていたのに。先月、夫から「別居したい」って言われて私はどうしても断れなかった。だったら離婚しようよ、って私ならすぐ言い返すと思っていたのに。ここ最近、夫との距離が段々開いているのは感じていた。全部私の責任だってわかってる。スランプ中の画家の世話なんて確かに面倒だろう。無言で荷物を運ぶ彼の背中に声をかけたい。でも何を言って良いか全然わからない。

高校在学中に私は一躍有名人になった。魚をモチーフに描いた壁画作品が、日本を飛び越し突然世界で評価されたのだ。世界中から「うちの壁にも描いてくれ」というオファーが殺到した。高校卒業後、私はデザイン会社にバックアップされながら世界中を飛び回り、様々な魚を描いた。ライトアップされながら大観衆の前で描いたこともあるし、魚を見たことが無い国、壊れかけた壁しかない国でも描いたりした。そんな無謀な生活の全てを支えてくれたのが男前のマネージャーだ。今は隣の部屋で昔のアルバムをテキパキと整理し始めている。

このままじゃ駄目だ。私は隣の部屋に行き、思い切って彼に声をかけようとした。すると彼は一枚の写真を持って佇んでいる。それは20年前の私の写真だった。5歳の誕生日に初めて大きいキャンバスを両親からプレゼントされて、大興奮でたくさんの魚を描いた。この時のことは良く憶えている。「この魚たち、凄く良いね」彼はとても嬉しそうに言った。何ヶ月ぶりに彼の笑顔を見ただろう。私は背中に抱きついて泣きじゃくることしか出来なかった。なんにも言葉が出てこない。やっと思い出した。だから私は魚を描くんだ。

photo by normaratani