第104回 揺れる船

この湖で漁を始めて40年。親父がついに漁をやめると決心した。母親からそんな連絡をもらって、僕は数年振りに実家に帰って来た。一時は場所取りをするほどに盛んだったこの漁も、ここ数年は親父だけが船を出している。僕が幼い頃から使っていた今にも沈みそうな小さい船だ。久しぶりに見た船は思っていたよりもずっと古く、親父を乗せることにもう疲れ切っているように見える。

最後の漁の朝。僕は親父と共に家を出て漁の準備をした。手際よく湖に網を投げ込めるように仕込むのだ。小学生の頃にいつも手伝わされていたから手順は良く憶えている。湖に出て網を全て仕掛け、僕と親父は一度岸辺に戻り弁当を食べることにした。母親に弁当を作ってもらったなんて思い出せないくらい昔のことだ。ふたを開けるとそこにはバナナの皮や紙くずが敷き詰められていた。2段目にはちゃんと白飯が入っている。愕然としている僕に「またか」と親父が呟いた。

「母ちゃんは認知症になっちまったんだ、お前には知られたくないって言ってたから言わなかったけどな。昨日も母ちゃん頑張って隠してた。でも毎日これなんだよ。母ちゃんそんな自分に苦しんでて可哀想なんだ」

僕は弁当のふたを閉めて鞄に戻した。昨晩やけにはしゃいでいた母親を思い返す。寿司の出前なんて珍しいなと思ったけどそんな理由だったなんて。漁をやめることにもこれで納得がいく。うつむく親父にかける言葉が見つからない。母親は今、どんな気持ちで僕たちの帰りを待っているのだろうか。網を引き上げる時間になっても僕たちは無言のまま湖を眺めていた。いいから早く終わらせてくれと、傾いた船が静かに揺れている。