第28回 あいうえお

ンガーソングライターとして活動している彼女が声帯ポリープの手術を受ける事になった。声帯の手術はどうしても避けたかったようだけど、明らかに痛みと腫れが酷くなってしまって、仕方なく手術する事にしたのだ。

入院前日、ベッドの上で彼女はしくしく泣いていた。本当は怖くて大泣きしたいのに、それも出来ない位痛みが強くなっていた。「もし手術が失敗して、このまま声が出なくなってしまうとしたら、あたしは絶対に後悔するから少しだけ歌う。だから聴いてて」と彼女は小さい小さい声で言った。わかった、少しだけだよ、自然と僕も小さい声になる。

彼女は音程も聞き取れないほどのささやく歌声で、自分で作ったお気に入りの歌を歌った。僕は聴き逃すまいと彼女の口元に耳を限界まで近づけて最後まで歌声を聴いた。暗い部屋の中、吐息のような歌声は僕にしか聴こえないその時間はまるで、海に深く潜り、揺れる海面をただただ眺めている様だった。

手術は無事成功に終わり彼女は退院した。「声を出さないように」と言われた期限は一週間。ついに声を出していい朝を迎えた。彼女は今まで見た事無いような神妙な顔つきでベッドに座っている。

声が変わってしまっていないか、前のように毎日歌う事が出来るのか、もう痛みはないのか。とにかく心配なんだろう。横で寝ていた僕はしっかりと起こされ、目の前に座らされた。

そして彼女は僕を見ながらゆっくりと静かに「あ、い、う、え、お」と言った。もう一度、今度はすこし大きい声で「あいうえお!」と言った。彼女の声は少しも変わっていなかった。

この部屋に戻って来てくれた声を僕たちは大歓迎した。今、彼女は「かきくけこ、さしすせそ、」と続けている。僕は、早く僕の名前を呼んで欲しいと思っていた。