1月18日、エイサップ・モブの創設メンバー、エイサップ・ヤムズ(26)死亡のニュースが世界中に伝えられた。

「自殺? 他殺?」

「オーバー・ドーズに違いない」

「いや、睡眠中に無呼吸状態になった事が原因だ、奴は<コーチェラ>でも寝ている間に汚物が喉に詰まって死にかけたからな」

あまりに早すぎる死に、インターネット上では様々な憶測が飛び交った。メンバーはそうした憶測を否定しているが、死因について未だ警察からの公式発表はない。そして死亡から一週間後、ヤムズの告別式は行われた。それはこの街のラップスターであり、同じく若くして命を失ったノトーリアス・B.I.Gと同じ葬儀場で行われた。

追悼 A$AP Yams 10年代USヒップホップシーン最重要人物の死 column150209_usa_2

エイサップ・ヤムズ

1988年11月18日、ドミニカンの母と、プエルトリカンの父の間に生まれたエイサップ・ヤムズことスティーブン・ロドリゲスは、ニューヨーク・ハーレムで育ち、幼少の頃からヒップホップに夢中な少年だった。中学に上がる頃には、すでにラッパーへの憧れだけではなく、楽曲を掘り下げる楽しみを覚えていたというヤムズは、時間が許す限りラジオを聴き、インターネットでリサーチをしては、チャットルームでヒップホップ談義に華を咲かせるという少年時代を過ごしていた。一度好きになったラッパーは、そのすべてのアルバムを聴かなければ気が済まなかったという当時のヤムズが夢中になっていたのは、キャムロンやDMX、BIG PUN、Nas、ウータン・クランだったという。

そしてこの頃、同級生との間に生じる貧富の差に疎外感を感じていたヤムズは、Nasのリリックの世界観に感銘を受け、自らを“Sensei the Golden Child”と名乗りラップを開始。次第に音楽業界でのビジネスへ興味が芽生え始めていたという。そしてヤムズは16歳になる頃、進学した高校をドロップアウトすると、知人の紹介を経て地元ハーレムのラッパー、ジム・ジョーンズとキャムロンが設立したレコード・レーベル、〈Diplomat Records〉でインターンシップを開始した。しかし、レーベルでのインターンシップは無給だった為、生活費を稼ぐ為にミックステープを売り始め、さらにカフェで掛け持ちのアルバイトもした。それでもお金が欲しければ、アルバイト先のレジから盗みも働いた。あきれた母親から家を追い出された夜には公園で野宿もした。そうした環境ながらヤムズはレーベル内で行われるビジネスを間近で見る事で、音楽業界の仕組みを理解していったという。

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そして2007年にヤムズは、地元の仲間達とヒップホップ集団A$AP MOBを結成。ラッパーやDJ、プロデューサーに限らず、映像作家やファッションデザイナーなど同世代のクリエイター達が集まるこの集団は次第に拡大していった。そして翌年、ヤムズは友人の繋がりからある人物と運命的な出会いをする。その人物こそが、後に世界的なヒップホップ・スターとなるエイサップ・ロッキーだった。当時のロッキーは、ロングヘアーを束ねたポニーテイルスタイルで、お洒落に気を使い、すでに独特のラップスタイルを持っていたという。

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エイサップ・ロッキー

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